孝明天皇と「一会桑」
【書 名】孝明天皇と「一会桑」
【著 者】家近良樹
【発行所】文春新書
【発行日】2002/1/20
【ISBN 】4-16-660221-7
【価 格】700円
幕末というと薩長が首尾一貫、武力による倒幕を考え、最終的に鳥羽伏見の戦いで幕府に引導を渡したイメージがありますが、実態はどうも違っていたようです。幕末にスポットをあて実際はどうであったかを時系列に書いた本で、副題は『幕末・維新の新視点』です。
題名の「一会桑」は一橋、会津藩、桑名藩で頭文字をとったもので、京都で孝明天皇を中心とする公家社会と応対した幕府側です。一橋は一橋慶喜、会津藩は松平容保、桑名藩は松平定敬です。松平定敬は松平容保の弟で、五稜郭まで戦った殿様として有名です。末期の新撰組に桑名藩士が多いのは、殿様自ら土方歳三らと転戦したのが理由です。
さて「一会桑」は幕府の京都側代表でしたが、どうも江戸とも一体に動いたのとは違い、どうも微妙に立場をかえていました。その一会桑も慶喜が将軍となることでまた立場が変わっていきます。
最終的に徳川慶喜が大政奉還を行うことで幕府側が有利となり、この時点で巻き返しをはかった薩長が王政大復古のクーデターを起こします。ただし幕府と戦うことは想定外で会津藩、桑名藩との交戦を想定していました。ところが徳川慶喜が京都を出て、大阪へ向かうことで、この作戦も功を奏しなくなります。この時点でも幕府側のポイントが高かったのですが、薩摩藩邸の焼き討ちがターニングポイントになりました。
筆者によれば『三点差で負けていたのを九回の裏ツーアウトの後に放たれた一本の逆転サヨナラ満塁弾が試合を引っくり返した』のだそうで倒幕は僥倖だったというのが真相のようです。
また横浜開港以来、油や紙などの日用品が高騰してしまい、下関で排外運動に立ち上がった長州藩に世間に人気が集まっていました。こんなことも影響していたようです。
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