保科政之言行録
【書 名】保科政之言行録
【著 者】中村彰彦
【発行所】中公新書
【発行日】1997/1/15
【ISBN 】4-12-101344-1
【価 格】699円
2代将軍家忠の息子です。家忠は奥さんに頭の上がらなかった人のようでしたので、側室に生ませた子供は信玄の娘であった見性院の元で育てられました。
武田家が滅亡して家康に召し抱えられた遺臣団は900家余りありましたがこの時代になっても、見性院の元へご機嫌うかがいに来るのはただ一人で信州高遠2万5千石の保科正光だけでした。預かった子供も大きくなり、色々な教育が必要だろうということでこの律儀な保科に頼むことになります。
と言うわけで保科政之という名前になるのですが、やがて異母兄の家光の信頼を集めるようになります。家庭的には、子供に先立たれるなど不幸な人でしたが、会津領内では名君として、やがて幕府の執政を預かるようになると、戦国以来からの武断主義から文治主義へとうまく転換を果たしました。
日本史の教科書を見ると、享保の改革などを学びますが施策の原点はこの保科政之にあったようで、本人がなんせ自分の政策だと分からないように公文書を後で焼いたりするような無私の性格でもあったために、歴史の中に埋もれてしまっています。
家光が死ぬ時にまだ幼い家綱の補佐を頼まれ、これが「託孤の遺命」となり、また律儀に守り抜きました。
防水措置、飢饉対策として義倉を設け、困っている者には貸し与え、減税の実地なども行っています。間引きの禁止、殉死の禁止などの細かなことも実施しています。
■本邦初の国民年金制度
領内の90歳以上の者には貴賤男女を問わず生涯一人扶持(1日5合の玄米)が支給されました。まさしく生涯年金です。
■明暦の大火
この時は江戸城の天守閣までが燃える騒ぎになりましたが、取った措置がすごいですね。天守閣の家綱をまず西の丸へ移し、燭台とロウソクを用意させて、まず闇の恐怖を取り除き、旗本御家人の米が浅草の米蔵に百万俵あるので、これを開放して町人に配りました。
大火によって物価の高騰が予想された時の発想もすばらしく、需要を減らしてしまえばいいと、江戸参勤中の大名を国元へ返し、出てくる用意をしていた大名には、しばらく来るなと言うことで江戸の人口を減らしてしまい、物価の高騰をおさえました。
炊き出し、町屋の再建に金蔵をからっぽにしたそうです。反対もありましたが、幕府の貯蓄というのはこのような時に配布して、町民を救助・安堵させるのが国家の大慶である。と主張してやったそうです。また守閣の再建も許しませんでした。
こういう政治家がまた出てきませんかね。保科政之が残したのが会津家家訓でこれをまた会津の武士が守り抜き、9代藩主の松平容保が幕府に頼まれて京都守護職を引受る羽目になります。やがて戊辰戦争で鶴ヶ城は燃え、滅藩の運命へとつながっていきます。徳川親藩などが次々と裏切っていった中で最後まで戦った藩でした。
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