信長の戦争
【書 名】信長の戦争
【著 書】藤本 正行
【発行所】講談社学術文庫
【発行日】2003/1/10
【ISBN 】4-06-159578-4
【価 格】1000円
副題が「信長公記に見る戦国軍事学」です。
信長と言えば、桶狭間の合戦では大きく戦場を迂回して、狭間の今川義元へ駆け下りて奇襲をかける、長篠合戦では3千挺の鉄砲による三段打ちなどの戦闘イメージが強いのですが、これは江戸時代にかけれた小瀬甫庵の「甫庵信長記」の創作です。
実際はどうだったのか、信長の部下であった太田牛一の「信長公記」を元に再現しています。
■桶狭間の合戦は偶発であった
今川義元が天下に号令するため尾張に進軍というのは嘘で、せっかく調略で尾張に築いた拠点、鳴海城などを信長が砦を築いて対抗したため、領土争いで出陣したのが本当のようです。
今川義元は決して凡庸ではなく、桶狭間山という高台に陣を敷き、先陣も派遣していました。
信長は主力部隊を残しておいて、砦攻めで疲れた今川の一部隊を何とか破り引き分けに持ち込もうと考えたようです。中島砦まで来ると、目の前に敵軍があらわれたので、てっきり砦攻めで疲れた部隊だと攻撃したところ、実は今川義元の前軍でした。
信長の主力部隊はこれを打ち破ってしまいました。折りよく嵐となり、そのまままっすぐ山を登っていくと今川義元の本陣でした。
今川義元は金持ち喧嘩せずで、旗本を引き連れて後方部隊に合流しようと退却をはじめました。自分たちの戦力の方が圧倒的に多いのでまっとうな作戦です。ところがどうしたことか信長が勝ってしまいました。
というわけで偶発的に勝っただけで、決して奇襲ではありませんでした。信長が偉かったのは二度と同じ作戦は使わず、それ以降、常に多い戦力で敵にあたりました。
■三段打ち
著者が見た古文書には千挺とありましたが、そこに三という数字が後から補ってあったそうです。確かな数字は分かりませんが、千挺近くは集めたようです。
ただし、何百挺という鉄砲にしても、戦場でどうやって一斉射撃をする命令を使えるかと言われたら、確かにそうですね。声などなら20挺ぐらいなら何とかなるかもしれませんが、100挺なんて、とてもとても
長篠合戦では長篠城を救いに行った別働隊の動きが鍵になりました。
→ 『信長の戦争』
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