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2005/10/12

「夏子の酒」読本

 【書 名】「夏子の酒」読本
 【著 者】尾瀬あきら
 【発行所】講談社
 【発行日】1993/12/15
 【ISBN 】4-06-206635-1
 【価 格】1165円



ご存じ夏子の酒です。幻の酒米の龍錦を栽培して、それでお酒を作る物語ですが、そのモデルになったのが新潟県三島郡の久須美酒造です。

テレビドラマの夏子の酒ではロケ現場として使われ、酒米である亀の尾栽培会の指導の元で俳優による田植えなども行われました。

さて本家の久須美酒造ですが、酒造りを5代にわたって行っている古い蔵です。6代目がふと考えたのが酒米と言っても播州米の雄町や山田錦がよく使われるが新潟のような雪国では風土にあった酒米の方が良いだろうということで、亀の尾という庄内生まれの酒米を探すことになります。

ある杜氏が集まった席で昭和の初めに亀の尾という米があって、これで造った吟醸酒の味が忘れられないと聞いたのがきっかけでした。

ところが、この米を探すのが大変でした。ほとんど絶滅状態で、最後にようやく農業試験場にあることが分かり稲穂を10本分けてもらったそうです。

亀の尾は、食味のうまさと寒冷に強い性質から一時は関西の「雄町」「八反」に並んで酒米三大品種としてもてはやされた米で、現在のササニシキやコシヒカリはこの亀の尾を始祖としています。

ただ弱点もあり、病害虫に弱く、背丈が高いので雨風に弱いなどです。とりあえず10本の稲穂から籾を取ると1500粒あったそうで、とりあえず天井の梁に封筒を入れてぶら下げてネズミ対策をしたそうで、ここらへんは「夏子の酒」でも出てきます。

昭和56年にいよいよ亀の尾を復活させるために種籾をまき、収穫は30キロ、その秋には米作りのベテランを招いて、亀の尾の復活に協力してほしいと協力を依頼。こうして出来たのが「亀の尾生産組合」で有機農法により米作りが始まります。ここらへんは夏子の酒そのままですね。そして30キロが4800キロになり、いよいよ醸造です。

昭和58年に60%の精米歩合で吟醸酒を造りました。ただ味はいまいちだったそうで、田んぼは1年枯らすと3年は作れないという話のように、今までの田んぼは化学肥料で土がやせ細っていて地力がなく、有機農法に切り替えても昔の地力がつくまでには、やはり3年かかったそうです。

昭和60年以降、ようやく亀の尾の真価で出来る吟醸酒が出来始め、これが「亀の翁」の誕生話になります。年間2000石の蔵ですので、この「亀の翁」も出荷量が少なく、幻の酒になっています。

と言うことで、夏子の酒の物語とほとんど同じような苦労があって亀の翁が誕生したんですね。もっとも実際の主人公はおじさんですので、コミックではちゃんと女性の夏子になっておりました。

「和醸良酒」という額がコミックで佐伯酒造にかかっておりましたが、これも亀の翁を造った久須美酒造専務が知人からいただいたもので、一度造りに入ると、交代で誰かが起きて働いている状況で一人でも手を抜けば酒が駄目になってしまう。大切なのは蔵人の和で和が良い酒を醸すということだそうです。

■居酒屋
江戸時代、「居酒致し候」という看板が出ている店で、居て酒を飲むつまり居酒をすることから居酒屋になったそうです。縄のれんは網戸が無かった時代の蠅よけでした。

■無礼講
後醍醐天皇が北条氏打倒の策略を練るため、同志を呼んでその相談をするさいに、身分関係を抜きにしてハメをはずした酒宴を行いました。これは世間をあざむくための手段で、宴にかこつけて協議をしていました。ただ、毎日続く常識や礼儀を欠いた酒宴の様子に驚いた人が無礼講という名前をつけたそうです。

■左利き
酒飲みのことをさしますが、ノミで木を削る時に左手にノミを持ち、右手のトンカチでたたきます。つまり左手がノミを持つ手で、つまりノミ手で、これが飲み手で、シャレで左利きのことを酒飲みとい
うようになりました。

■上戸・下戸
大宝律令(701年)に成年男子が6人から8人いる家を上戸、4人または5人いる家を中戸、3人までの家を下戸と呼んだのがそうです。当時は成年男子が多ければ、それだけ働き手が多いので、経済的収入もあり、婚礼の時などに酒を多くふるまえる上戸とあまりふるまえない下戸が酒を多く飲む上戸、酒をあまり飲まない下戸へと変化していったようですね。

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