2019/10/20

徳川家が見た幕末の怪

 【書 名】徳川家が見た幕末の怪
 【著 者】徳川 宗英
 【発行所】角川oneテーマ21
 【発行日】2014/06/20
 【ISBN 】978-4-04-101464-6
 【価 格】800円


著者は田安徳川家11代当主です。


■日英交流400周年
幕末には幕府ーフランス、討幕派-イギリスという構造でしたがイギリスはけっこう幕府よりだったようです。1613年、イングランド国王ジェームズ一世から徳川家康に新書が送られ、東インド会社の船が平戸に来航し、家康は英国代表団と面会しています。この時に秀忠が贈った甲冑はロンドン塔に展示されています。400周年にあたる2013年にイギリスで日英交流400周年記念硬貨が400枚、作られました。片面はエリザベス二世の横顔で、もう片面は東インド会社の船を背景にしたジェームズ一世と家康が並んでいました。発行したのは今も続く東インド会社です。


■七卿落ち
八月十八日の政変で7人の公卿が追放され長州へと落ちのびていきます。第一次長州征伐のあと筑前に移っていた公卿の処遇について話し合ったのは沖永良部島から戻ってきた西郷隆盛と長州で公卿を警護していた土佐の脱藩浪士・中岡慎太郎で、薩長同盟の足掛かりとなります。


■寛永寺・輪王寺宮能久親王
江戸無血開城というと西郷隆盛、勝海舟の名前が上がりますが、既に大方の方針は決まっていたようで和宮や天璋院からの嘆願。また徳川慶喜に頼まれ輪王寺宮能久親王が嘆願書を討幕軍の熾仁親王に渡して、お膳立ては整っていました。あくまでも黒子に徹して、表舞台は西郷隆盛、勝海舟にまかせたようです。


■博徒
赤報隊に加わっていたのが清水次郎長と争っていた黒駒勝蔵


徳川慶喜を支えていたのが新門辰五郎。大正2年に徳川慶喜が亡くなった時、辰五郎の末裔である火消衆が揃いの半纏で集まり、組ごとに纏をあげて見送ったそうです。


■日米修好通商条約
関税は輸出が5%、輸入が20%で西欧諸国と同等でした。これで輸出超過となり日本としては儲かっていました。ところが1866(慶応2)年に輸出入とも5%となり輸入超過となってしまいます。原因は長州藩による下関砲撃事件。賠償金を幕府に要請しましたが値引きする代わりに税率変更を申し込んできました。徳川幕府の弱腰外交で不平等条約になったわけではなく、長州のせいだったようです。


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2019/10/18

明治維新に不都合な新選組の真実

 【書 名】明治維新に不都合な新選組の真実
 【著 者】吉岡 孝
 【発行所】ベスト新書
 【発行日】2019/10/15
 【ISBN 】978-4-584-12604-2
 【価 格】860円


「勝てば官軍」という言葉があるように敗者の歴史は書き換えられていきます。明治の元勲と言いながら若いときにやっていることはテロリストと変わりません。新選組に焦点をあてた一冊になっています。


■不平等条約と言われた日米修好通商条約
アヘン戦争に敗北した清が結んだ不平等条約をよく理解していたので幕府は平和裏に条約を結ぶことを急いでいました。今と違って欧米列強が極東の国と平等な条約を結ぶことも考えにくい状況でした。日米修好通商条約の関税は20%でしたが国内市場を守るには適していました。ところが1866(慶応2)年に一律5%と改正されたことで安い外国の工業製品が日本市場に入ってくることになりますが、改正のきっかけは尊皇攘夷により外国人へのテロでした。結果的にテロが国内産業に打撃を与えることになります。


■新選組が会津藩お預かりに
会津藩の方針は「言路洞開(げんろどううかい)」で浪人たちの意見を聞き、志あるものは奉公させるにありました。清河八郎と袂をわかち京都に残った浪士組を利用しようとしていたのは土佐藩と長州藩で、敵に走られるぐらいなら味方にした方がよいと引き取ることになります。


■かってに金策いたすべからざること
局中法度ということで有名ですが子母澤寛の小説による創作でした。当時の浪人結社が行っていたのが押借(おしがり)で、政治的大儀をいいながら何百両も出せというものでした。浪人を取り締まる側の新選組が同じことをするわけにはいかないので勝手な金策を禁止しました。ただし隊の方針のもとに行う金策はOKです。


■池田屋事件で会津藩が遅れたワケ
出陣する会津藩士が藩主の謁見(御目見)を願っていたためで、実は池田屋事件の前年に浪士召し捕えの捕方が藩主の謁見をえたという前例があったからです。これで新選組がわずかな人数で池田屋に突入することになります。池田屋では放火して京都を火の海にして天皇を奪い去ることを話し合っていたと言われていますが。これは後からの付け足しで実際は公家宅への放火程度を計画していたようです。



■新選組の情報収集能力
新選組はいわばアウトローなので、いろいろな情報ルートをもっていたようです。長州征伐では幕府軍について広島までは行っています。高杉晋作の動きや長州に薩摩が接近している事実、とても戦えない旗本の実力を報告しており、実に的確だったようで会津藩も新選組を高く評価していました。

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2019/10/15

人は「のど」から老いる「のど」から若返る

 【書 名】人は「のど」から老いる「のど」から若返る
 【著 者】福島 英
 【発行所】講談社
 【発行日】2018/09/20
 【ISBN 】978-4-06-512947-0
 【価 格】1000円


知的生産の技術研究会でお世話になっている福島さんの著者です。代々木駅近くでブレスヴォイストレーニング研究所を開設し、ヴォイストレーニングを行っています。


ノドの構造上、誤嚥するのは人間だけだそうです。ノドにはアダムのリンゴと呼ばれる「のど仏」がありますが、これがあるのは人間だけ。二足歩行することで気道と食道が交差するようになり食べ物が肺にいかないように蓋をする仕組みができあがりました。動物は鼻で呼吸しながら飲食できますが人間はできません。問題は加齢とともに「のど仏」の位置が下がってきます。これが誤嚥となります。ヴォイストレーニングをすることで、この加齢を遅らせることができ、レッスン方法についても書かれています。


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2019/10/14

働き方を会社にまかせない

 【書 名】働き方を会社にまかせない
 【著 者】北口祐規子
 【発行所】ギャラクシーブック
 【発行日】2006/04/02
 【ISBN 】978-4866284347
 【価 格】1650円

著者は大阪府よろず支援拠点・チーフコーディネータでもあります。

本の副題が「これからの時代の自分らしいを創るために」になっています。自分の人生は自分が主役ですから、自分がやりたいことから考えていくための考え方が書かれており、20代、30代で働いている女性に最適な一冊になっています。

15~64歳の生産年齢人口で女性の数が3778万人。働いている人は2572万人で68.1%という状況で女性の3分の2は働いているのが当たり前の時代になっています。

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2019/10/12

関ケ原合戦は作り話だったのか

 【書 名】関ケ原合戦は作り話だったのか
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2019/09/27
 【ISBN 】978-4-569-84371-1
 【価 格】900円


副題が「一次資料が語る天下分け目の真実」になっています。家康は多数派工作をすすめ毛利輝元、小早川秀秋とも話がついており西軍は負けるべくして負けたようです。特に宇喜多勢は内紛騒ぎが尾を引いており、島津勢も兵力が少なく戦力不足でした。また毛利は安国寺恵瓊にすべての罪を押し付けてしまいました。


大谷吉継が家康に味方するつもりでしたが石田三成との友情から西軍へというシーンがよく描かれていますが、前田利長、浅野長政、石田三成、そして上杉景勝と豊臣政権を支える面々が瓦解することに危機感をいだいていたのが一番の理由でしょう。


■安濃津の戦い
関ケ原の戦いの前哨戦になったのが安濃津の戦い。安濃津城主・富田信高、伊勢上野城主・分部光嘉、松坂城城主・古田重勝、岩出城主・稲葉道通が東軍側で戦いましたが古田重勝は和睦を申し出て時間を稼ぎ、関ケ原の戦いのあとまでもちこたえました。安濃津城での戦いで兵力差はいかんともしがたく高野山の木食上人応其の仲介で降伏することになります。大津城の戦いでも西軍の要請で京極高次に高野山の木食上人応其が派遣され降伏となりました。


■井伊直政、松平忠吉
福島正則が先陣と決まっていましたが井伊直政が家康の息子で婿の松平忠吉を連れて福島隊の前へ出て、先陣をきったというシーンもよく描かれていますが、本来は秀忠が先陣予定だったのが遅れたため松平忠吉が代わりに先陣を勤めることで諸将も納得したようです。


■小早川秀秋の裏切り
前日までに話がついており、午前10時の開戦と同時に小早川秀秋は西軍に攻めたのが真相のようです。


■新藤三左衛門
宇喜多秀家の家臣で逃亡の時間を稼ぐため本多正純のもとへ秀家が自害したと宇喜多家に伝わる「鳥飼国次」という太刀を差し出します。嘘が判明しますが、徳川方はとがめられなかったようです。


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2019/10/06

世襲の日本史

 【書 名】世襲の日本史
 【著 者】本郷和人
 【発行所】NHK出版新書
 【発行日】2019/09/10
 【ISBN 】978-4-14-088601-4
 【価 格】800円


■公地公民
律令の建前は公地公民でしたが、これを踏みにじったのが院政です。上皇が公然と荘園を皇室のもとに集めます。六勝寺などをトンネル会社にして。この寺が寄進をうける形で実質的には皇室領を増やしていきます。


■貴族
摂関家-5摂家 近衛家、九条家、鷹司家、二条家、一条家
大臣家-内大臣、右大臣、左大臣、太政大臣になれる家
大臣になると名前の下に「公」をつけます。ですので水戸光圀公というのは間違いで正確には水戸光圀卿になります。


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江戸300藩 改易・転封の不思議と謎

 【書 名】江戸300藩 改易・転封の不思議と謎
 【著 者】山本博文
 【発行所】じっぴコンパクト新書
 【発行日】2019/09/10
 【ISBN 】978-4-408-33887-3
 【価 格】950円


江戸時代に行われた改易(取りつぶし)と転封が行われ、一番多かったのが松平直矩の7回、引っ越し大名のあだ名がつきました。


■小田原藩 大久保忠札
幕末の戊辰戦争では新政府側として箱根の関所を守っていましたが、請西藩を脱藩した林忠崇と遊撃隊が「上野の戦争で彰義隊が勝って、徳川勢が進軍してくる」というデマにまどわわれて旧幕府軍に箱根の関所を渡してしまいました。江戸にいた重臣が急ぎ戻って、新政府側に寝返りましたが右往左往。遊撃隊の伊庭八郎が「12万石の立派な藩にひとりの男児もいないのか」と言われる始末でした。


■宇都宮藩
幕府に進言して朝廷から山陵奉行に任じられ歴代天皇陵の修復作業をしていました。幕末の動乱の時にこれがいきました。幕府、新政府の両方からあまり信じられていませんでしたが新政府側につき土方歳三などに攻められて落城しました。


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動乱の室町時代と15人の足利将軍

 【書 名】動乱の室町時代と15任の足利将軍
 【著 者】山田 邦明
 【発行所】青春新書
 【発行日】2019/05/15
 【ISBN 】978-4-413-04568-1
 【価 格】1320円


複雑な室町時代ですが地図などの図説がついていて分かりやすく整理されています。足利将軍といいながら最後を京都で迎えなかった将軍も多く、10代義材は阿波、11代義澄は近江、12代義晴は近江の穴太で没しています。


13代義輝は京都で没しましたが三好三人衆に囲まれ刀をふるって奮戦し殺されました。三好三人衆はどうも御所を囲んで強訴する御所巻の予定でしたが混乱のなか偶発的に殺されたのではという説も出ています。


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2019/09/27

戦略で読み解く日本合戦史

 【書 名】戦略で読み解く日本合戦史
 【著 者】海上 知明
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2019/05/15
 【ISBN 】978-4-569-84306-3
 【価 格】900円


「たとえ愚策でも勝利したと見なされる時は成功策とされる」ということで桶狭間合戦の奇襲などが分析されていますが、タマタマの要素が多く、織田信長自身も二度と同じような戦いはしませんでした。


■京都は守らない
京都は攻めるにやすく守るに難しい土地でした。攻められる時は都落ちするのが一番で平清盛は平治の乱の始めにこれを考えていました。讃岐か筑紫に落ち延び拠点である西国の力を結集して再度、上京すればよいだけです。平家の都落ちも同様で生田から塩屋へつながる膨大な要害を作り上げ制海権もおさえていました。そこへ義経が鵯越で攻めてくるのが一ノ谷合戦ですが、実際は後白河法皇による騙し討ち。和平を勧告し、平家には武装解除して源平に戦争しないように申し伝えていました。そこへ義経が攻め込んできたので、完全な騙し討ちだったというのが実態のようです。


楠木正成も同様の考えで足利尊氏が攻め上ってくる時に後醍醐天皇と新田義貞を比叡山に移して平安京を開けてしまう案です。楠木正成は河内に戻り、叡山と淀川で物流を止めて足利尊氏側の勢力が落ちた時に挟撃する案です。これを潰したのが後醍醐天皇側近で聖戦論を主張した坊門清忠でした。


■金ケ崎城の退き口
朝倉攻めの最中に浅井の寝返りが分かった時に信長がとった行動は少人数で逃げるということです。生き残れば大軍を再編できると考えていました。後に秀吉が話した逸話が残っています。信長の5000人の兵と蒲生氏郷の1万人の兵が戦ったらどうなるという問いに。秀吉の答えは信長で信長軍から4900の首級があがっても、そこに信長の首はなく蒲生軍から5つの首級があがったら、そこに勇猛果敢な蒲生氏郷の首が入っているというオチでした。


■兵農分離
信長の専売特許のように言われていますが、どこの戦国武将も行っていて農繁期にも戦をしていました。ただし農村の余剰人員でしたので差はありました。信玄の場合、1万石あたりで400数十人。北条は700人、長曾我部は1000人でした。これを徹底していたのが信長で桶狭間合戦の後も尾張を統一するまで親族などとの争いに疲れていました。武士を拠り所の土地と切り離すことを真剣に考え、給与システムにしていきます。もともとの土地を離れ城下に住みますので人が増え経済が活性化します。商業育成が運上を生み出し、新たな兵を雇うことができます。


■石山本願寺
信長公記によると「方八町のかまえ」とあり寺内町六町が巡っていました。敷地は770m×550mで現在の大阪城の約88%。51もの子城があり巨大城郭です。


■信玄の信長評価
信長はいったん包囲した城を解いて撤兵したり、国境付近の小城の落城は意に介さず、退却なども平気で行い、その反対に重要な合戦では大兵を集めて確実に勝利し領国を広めてゆく方策をとっている。信玄は自重気味で、動きが遅い自分の欠点もよく認識していたようです。


■楠木正成の四天王寺の戦い
宇都宮公綱軍が楠木正成が立て籠もる四天王寺に軍をすすめると、そこはもぬけの殻。それから4~5日後、四天王寺を遠巻きにして、沿岸沿いに紀伊に至るまで野伏に篝火をたかせました。とてつもない大軍がいると見せかけるためです。これが三夜続き、だんだん包囲網が狭まってきます。宇都宮公綱は一戦しようと考えていましたが、戦闘ははじまらず、ついに心理戦に敗れ四天王寺から撤退していきました。


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2019/09/25

座右の銘はない

 【書 名】座右の銘はない
 【著 者】石毛直道
 【発行所】日本経済新聞出版社
 【発行日】2019/07/12
 【ISBN 】978-4-532-17669-3
 【価 格】1800円


国立民族学博物館・3代目館長で食文化のパイオニアでもある石毛直道氏の自叙伝で副題は「あそび人学者の自叙伝」になっています。考古学えを志していましたが梅棹研究室に入りフィールドワークの世界へ。リビア砂漠の調査ではトリポリで買っておいた干ダラをうまくもどし、オアシスで手に入れた鶏をつぶして肝とササミを薄く切って出したら梅棹先生から「石毛は砂漠で刺身を作りよる」と後々まで言われたそうです。


世界中でいろいろなモノを食べてきましたが猿だけは食べなかったそうです。中国でチャンスがありましたが入らなかったそうで、京大には霊長類研究所があり知り合いも多く猿を一匹ではなく一人とか数えている連中に知られると仲間はずれにされることが必須だったからです。


■太陽の塔
大阪万博跡地に今も建つ太陽の塔。メイン会場(おまつり広場)の屋根を突っ切って築かれました。石原慎太郎の「太陽の季節」がブームで性器で障子を突き破るシーンがあることを小松左京氏が指摘したことから命名されました。


■民博の昇進ルール
梅棹先生が作ったそうで民博が発行した冊子などへの研究者ごとの寄稿ページ数を研究者への研究費支給額で割ったもので名前は入っていませんでしたが一目瞭然でした。民博設立前の構想では国立民族学研究博物館でしたが万博公園を所轄していた建設省から「法律で公園内に陳列施設はできるが研究施設はダメ」と言われてしまいました。そこで文部省と調整してなんとか学は入れて国立民族学博物館となりました。


■1959年、京大探検部の模擬店「魚骨亭」
部の財政貢献のために学園祭に一杯飲み屋を出店。献立は原価がほぼタダの、蛇の蒲焼、カエルのつけ焼き、ザリガニのフライ、大麦を煎って粉にしたツアンバ(チベットに主食)、松の葉をぬるま湯に一日漬けこみアルコールと砂糖を添加した松葉ビールを販売。客は一杯でかなりの売上になりました。


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